◆  コラム その六一(冨士のみたらし)

 連日にわたり暑い日が続いており、子供に限らず大人も熱中症対策が欠かせない日々です。しかし、夏は暑いからこそ楽しめる行楽もあり、代表的なのは海水浴やキャンプ、また夏祭りにやぐらを組んでの盆踊り、あるいは花火大会など数え上げたらきりがありません。その中でも注目しているのが、以前にもコラムでご紹介いたしました、「登山」が人気レジャーとしての地位を築き、もはや「山ガール」などの呼称は、ほとんど聞かれなくなりました。それほど一般化されてきた登山ですが、夏の登山では、日本人のみならず外国人も一度は登ってみたいと憧れる日本のお山の一位は「富士山」だそうです。一番多い理由としては、「日本一高い山」だそうで、それ以外には「いつも見ているから」とか、「富士山に登った人の話を聞いて」という動機も多いそうです。
 現代でも多くの人々が感銘を受け、魅了される「富士山」ですが、その麓には縄文後期のものと推測されているストーンサークルを伴う祭祀遺跡が発見されており、これらは学術的にも富士信仰に関わるものとみられており、また少なくともそれ以前から富士山に対する何らかの信仰の原型があったのではないかと研究されています。そうした環境による限定的な信仰が、全国的に広く信仰されるには、富士登山が大衆化されることが必要条件と考えられます。
 平安時代末期に富士山信仰の礎を築いたとされている一人として、末代上人(まつだいしょうにん)という僧が挙げられます。『本朝世紀』に記されている所によると、末代上人は富士山頂に寺院を建立し、鳥羽上皇以下の貴族階級に大般若経の書写を勧め、富士山頂に奉納したとされています。
 その後、鎌倉〜室町から戦国時代末期の頃、乱世の荒廃とした世を救済するために角行東覚(かくぎょうとうかく)が冨士道を開きました。角行にまつわる話としては、甲州勢に追われ敗走している徳川家康を助けたという逸話が伝えられています。
 戦国乱世が終焉を迎え、江戸開幕がなされて幕藩体制が安定してきた5代将軍・吉宗の頃、乱世の憂いから解放された庶民は、旅行することにも大きく関心をよせるようになりました。『東海道中膝栗毛』などは伊勢参りの代表的な旅行記ですが、富士登山に関するものも多く、もはや富士山は修行僧による限定的なものとしてではなく、一般化される潮流が生れ、修行僧の中には若者衆を教化し、富士登山の引率を務める「御師」として活躍する僧もあらわれ、登山者が年々増加してくると、それにともない街道や山道の整備・宿泊施設などが充実し、ますます庶民の関心は高まりました。この頃になると僧の引率よりも多数回登拝している身近な町民が「先達(せんだつ)」と呼ばれるようになり、この先達が講元となって、ついには富士信仰から富士講が結成されました。最盛期にはその数「江戸八百八講 講中八万人」とまで言われるようになり、こうして広く大衆化されていきました。もはや富士山は、羨望の的ではあるが遥かに遠い存在ではなくなり、享保期以降の富士講の目覚ましい発展には、村上光清と伊藤食行身禄(いとうじきぎょうみろく。以下、伊藤身禄と記す)の存在があります。村上光清は主に大名や上層階級から支持され、伊藤身禄は家業を真面目に勤めること、他の為に祈ることが救いとなると説き、江戸庶民から熱狂的に支持されました。
 伊藤身禄は冨士道開祖の角行東覚師の五代目の弟子であり、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めていきました。角行の信仰は既存の宗教勢力に属さないもので、伊藤身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力であったことと、地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多く登拝者を引きつけました。特に宝永の大噴火以降、復旧に時間がかかった大宮口や須山口は、江戸・関東からの多くの登拝者で賑わい、吉田口では御師の屋敷が最盛期で百軒近く軒を連ねるほどの盛況ぶりでした。あまりにも勢いが高まる富士講は、江戸幕府の宗教政策からは好ましくないとされ、しばしば禁じられましたが、死者が出るほど厳しい弾圧を受けたという記録はありませんので、おそらく詐欺や誘拐などを企図とする悪意な集団の粛正・取締りが目的だったのかもしれません。
 明治時代になると、多数に分立していた冨士講を宍野 半(ししの なかば)が「冨士一山教会」として統合し、「冨士山・日本」を意味する「扶桑」を教団名として「神道扶桑教」を設立し、教祖初代管長として宍野 半が就任しました。明治十五年に明治天皇の勅許を賜わり、「神道扶桑教」(以下、「扶桑教」と記す)は教派神道の一派として「出雲大社教」と同時期に特立しました。
 山岳の中でも特に富士山を信仰する扶桑教では、七月に富士山八合目の天拝宮で行われる神事がもっとも重要なものとされており、この神事に出雲大社東京分祠も昨年に続いて本年も同行させていただきました。



 富士山八合目で執り行われるので、当然のことながら登山ということになりますが、一般の登山者とは衣裳が違います。特に注目を集めるのが足元の「地下足袋」です。白色の地下足袋で登拝するのですが、この地下足袋が思いのほか歩きやすく、富士吉田口の登山道にはぴったりの履物なのです。思えば一〇〇年くらい前までは、草鞋を履いて登拝していたのですから、現代での地下足袋は何ら不思議なことはなく、当然すぎる帰着なのですが、現代にしか思いを寄せられない方からは冷淡な眼差しを受けることもしばしばありました。また、登山中は黙々と歩くのではなく「六根清浄」「お山は晴天」などの掛け声をだします。この掛け声は祈念が込められているのですが、それだけに留まらず、お互いを励まし合うことにもなり、段々と薄くなる空気の中で呼吸が浅くならないように予防し、効果的な高山病対策にもなっています。先達が朗々とした声で「六根清浄」と唱えれば、後に従う人々も元気に答えるのですが、たまたま一緒になった一般登山者も唱えることもあり、そうなると教団云々ではなく同じ山頂を目指す仲間として一体となる感情が生れ、利己的な心情はなくなり、日常では生じ得ないような強い連帯感を感じて、多幸感に満たされる時もありました。
 平成二十五年に富士山が「信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録された最大の要因は、こうした多くの人々に広く開かれた信仰登山によるものであることは体験を通じて実感し、これから先も美しい富士山と共に明るく楽しい幸福な登山が後世に受継がれるよう祈念いたします。

お知らせ   八月二十六・二十七日 吉田火祭り「鎮火祭」 http://www.mfi.or.jp/himatsuri/

神道扶桑教ホームページ http://www.fusokyo.org/