◆  コラム その六七(神の木々5)
 今年の5月の大型連休は、東京都では夏日を記録するほど晴天に恵まれて、何とも陽気で賑々しく、ゴールデンウィークという呼称に相応しい連休となりました。そうした陽気のせいもあってか、遠近へ旅行された方も多かったのではないでしょうか。東京分祠でも連休中は、遠方から参拝になられた方々が多く見受けられました。また、初夏の陽気といえば、東京分祠の榊や桜なども徐々に木々は夏の様相を整え始めており、今では新芽から緑枝の時期へと移行しています。これからの緑枝の季節は、樹木の生命がもっとも豊かに感じられる時期であり、都内での生活を日々営んでいますと、時として雄大な自然に帰りたくなるような衝動、あるいは望郷の念に似たような想いに駆られます。こうした心情を「癒し」という言い方で表現されますが、これは山・海・川・野などが穏やかな状態の時にはじめて触れることができる安定した生命力に感化され、その生命力から得られた心的安定であり、そうした安定感によって日頃抱えているストレス・不安感が解消されていくのでしょう。新年度のはじまりで忙しい日々であった方にとっては、心楽しい休養になったのではないでしょか。
 一方で、この五月という時期は、東京区部の神社は重義の祭典が多く、神職・氏子は忙しさで賑わう時期でもあります。以下に少しくご紹介いたします。

  ○ 5月 3日 明 治 神 宮  春の大祭
  ○ 5月15日 神 田 神 社  神田祭・御鎮座400年奉祝大祭
  ○ 5月16日 浅 草 神 社  三社祭
  ○ 5月24日 湯島天満宮  天神まつり
  ○ 5月24日 新宿花園神社 例大祭

 特に出雲大社と御祭神を同じくする神田神社は、「御鎮座400年奉祝大祭」という大事な節目を迎えていらっしゃり、神職は勿論のこと、氏子の皆様も並々ならぬ心持ではないかとお察し申し上げます。

 祭典には大・中・小の祭祀様式があり、それによって神事や潔斎(けっさい:心身ともに清浄になること)の度合いなどが違っています。その様式は、各神社の古実・歴史に則して行われておりますが、祭祀に関係する神職・氏子の気持には大小の区別はありません。それは、どの祭祀様式においても潔斎を重んじ、常に清浄な状態を維持して祭典奉仕をして、誠を尽くす至誠通神≠心掛けており、御神意を継承する神人合一≠フ精神は同じことなのです。こうして潔斎を行い、祭式作法に従って次第通りにご奉仕します。どの次第も大切なものですが、絶対的に欠かせない作法・次第として「玉串拝礼」があります。
 一般的には「玉串奉奠」と称されますが、出雲神道では「玉串拝礼」と呼称します。おそらく神社関係者でないと分かりにくいことですが、奉奠≠ニ拝礼≠フちょっとした言葉の違いですが、その意味するところは大きく変わります。
 まず「玉串(たまくし)」とは何か。玉串の「玉」は、物質的な玉のことではなく魂(たましい)≠フことを指しており、玉串の「玉」は魂の宛字なのです。神さまのみたま≠ニ自分の魂(たま)≠つなぐ串というのが「玉串」の意味です。ですので、清浄な状態で奉仕する祭典の時の拝礼作法としても、玉串を手で持った所を神さまの方へ返してお供えすることが重要であります。もし、捧げ物としてのお供えならば、手のついた方を神さまに返すことは作法の心得に悖ることになります。つまり、自己の魂を玉串に宿して神さまにお供えをし、拝礼するということは、「精神的に神さまの境地に還って行く」という姿を表現しています。
 実際の玉串拝礼には、常緑樹(関東では「榊」が多い)を用いて拝礼しますが、これは前々回のコラムで学びました「賢木」「神籬」の考えと同じく、神さまを大きな樹と見立てて、そこから伸び出た枝葉の自分が還って行く姿を表現しているのだと出雲神道では考えていますので、玉串奉奠ではなくして「玉串拝礼」と言っております。
 さらに敷衍していくと、この「神の境地」に還って行く姿を具体的・肉体的に表現しているが、直会(なおらい)です。傍から見れば、神さまに供えたものを食べるということに留まりますが、直会の本義は、神さまが召しあがられたものを、自分たちも食べる「神人共食」を行うことによって、肉体的にも神の境地に還ることにあります。ちなみに、これを形式化したのが「三三九度」です。婚儀の時に夫も妻も同じ作法で共食し、この状態で一生を過ごして行くという合一≠フ意味なのです。
 玉串拝礼によって精神的に還り、直会によって肉体をも還って、「まつり」の本懐が遂げられます。「まつり」の意味について記述されたものは多数ありますが、一般の方に対して平易に分かりやすく説明した『神道出雲百話』(著 千家尊宣)がありますので、以下に引用します。
 「…(略)…日本の「まつり」とは、祭という漢字があてはめられますけど、このシナの「祭(さい)」がもともと持っていた意味とは全然違うのであって、どこまでも神さまと人間が一緒になる、ということなのです。…(略)…この意味を推し進めると、「神から生まれた人間が神の境地に還って行くということ」これが日本の「まつり」の真の姿なのです。しかも、単に神の境地に還って行くだけではなくして、「その神の境地に還って、神の心をもって実社会に働き通す」ということが日本の「まつり」の窮極の意味であります。」
 現代では、賑わい全般を「○○まつり」という言い方をしますが、神道本来の「まつり」は「神の境地へ還る」ことを目指しています。そうした祭典の拝礼は、玉串拝礼に集約されており、玉串として用いる「賢木」は欠かすことのできない存在です。このシリーズの次回は、樹木に関する神話を紐解いていきたいと思います。